ブログ作成に当たって
子どもの幸せを願って、思いつくまま書き込みをしています。読んでいただく対象が、保護者であったり、教師であったり、様々ですが、言葉(教師⇔保護者、私)を置き換えて、読んでいただくと、何かの参考になると思います。
ブログを読まれて、何かご相談がありましたら、こちらをご利用ください。
ブログ
問題を深く探る
子ども同志でトラブルを起こすことは、日常茶飯事です。そして、その時、子ども同士で解決できないときに、子どもが大人に助けを求めてくる事があります。「お母さん、〇〇さんが、〜をした。」
「先生、私が〜をしたのに、〇〇さんは、やってくれない。」
この時に、何とかその場の問題を解決しようと助けに入る時があります。
困った時に助けてくれる人がいる・・・・この事は、子どもの安心・安全につながります。
ただ、この対応によって、すぐに大人を頼る子どもにしてしまうと、大変です。
「お母さん(先生)に頼めば、解決してくれる。」・・・・となると、子どもの問題解決能力は、伸びません。
つまり、助けを求められた時の対応の仕方が大切になるという事です。
「問題解決がうまくできたので、よかった。」という状態にすると、子どもは、満足してしまいます。
子どもが、「問題解決がうまくできたけど、これではいけない。」というちょっと不満足な状態になることが、必要になります。
例えば、喧嘩になった理由の中に、「だって、前も〜された。」「〜すると言ったのにやっていない。」などと、過去のトラブルを引きずり出し、その不満を理由にしたり、そのような理由がありそうだと感じたりする場合です。
目の前の事実をいくら積み上げても、これでは問題の解決には至りません。
目の前の直接の喧嘩の原因だけでなく、喧嘩をする当事者同士の間にもっと深い別の問題があったり、トラブルを起こしやすい傾向があったりすることに気づいていると対応が異なります。
問題を深く探ることになります。
例えば、
相手を嫌っている。
相手に負けたくないと思っている。
すぐに手を出してしまう。
感情的になりやすい。
思い込みが強い。
不満を抱えている。
もし、そんな子どもだったら、トラブルが起きやすくなります。
これらは、相手の問題ではなく、自分自身の内にある問題になります。
ここに焦点を当てて、問題解決をすることが自分で問題解決をする力になります。
ただし、目の前の現象の解決ではなく、自分自身に問題を向けられると、子どもは、逃げたり、避けたりしたくなります。
指導の仕方を誤り、
「もういい。お母さん(先生)に相談しても解決してくれない。」という
状況になってしまっては大変です。
だからと言って、「本当は、自分自身に問題があるのだけど、仕方ない。」とあきらめては、子どもの能力を伸ばすことになりません。
次のような対応にしてみます。
1 まず子どもの願いを叶える
例「よかったね。これからは仲良くできるといいね。」
2 安心した後で冷静に自分を見つめる場を設ける。
例「また喧嘩が起きるといけないから、もう一度振り返って
みようね。」
3 今後、問題を生じないための自分見つめになることを伝える。
例「お母さんは、あなたに、〜な面があるとこんなことで喧嘩に
ならないと思うけど、どうかな。」
4 トラブルが起きた過程を自分を見つめた新たな視点から振り返る。
例、「だって、こうでしょ。この時に、あなたが〜したならば、
(〜のように考えたら)、きっと喧嘩にならなかったん
じゃない?」
5 今後努力すべき点を明らかにする。
例、「どんな時に役立つかわかる?」
「どうすると、できるようになるか、わかる?」
「〜できるように挑戦してみる?」
よりよいものを示すと、挑戦しようとする子どもは、多いように感じます。その可能性を信じたいと思います。
そして、問題を深く探ることは、私たちの探究する能力を試す機会にもなります。それは、「目を肥やす」ことになります。
本気になって
私たちの周りには、日々多くの情報が流れています。そして、その情報は、好むと好まざるとに関わらず、五感を通して入ってきます。そして、その情報の中には、自分にとって大切だと思うものもあれば、そうでないものもあります。
その大切だと思うものでも、「今役に立つ情報」と「ずーっと大事にしたい情報」があるように思います。
就職をしなければならないときには、就職のための情報が今役立つ情報になります。
コミュニケーションの力をつけようとすれば、コミュニケーション能力を上げるための情報が今役立つ情報になります。
趣味があれば、その趣味に関わる情報は今役立つ情報になります。
健康に関心があれば、健康に関わる情報が今役立つ情報になります。
テレビなどは多量の情報を流しているため、役立つ情報もあれば役立たない情報もあります。
テレビショッピングを利用した方もきっといるのではないでしょうか。
「いいな。」と思って、健康器具を買ってしまったが、今ではあまり役立てていないという事も多々あります。
今役立つ情報は、ずーっと大事にする情報にはなりません。
これらの今役立つ情報は、自分の状況によって日々変化します。
「不易と流行」という言葉がありますが、まさにこれらの情報は流行になります。
不易となる情報が、ずーとと役立つ情報と考えることができます。
この情報は、自分と深く関わり、つながっています。
「切りたくても、切れない。」「忘れたくても、忘れられない」という情報になります。
出会った人との思いでの写真をずーっと残しておくという方がいます。
この写真が与えてくれる情報は、その人との思い出がつまった情報になります。
「人生訓」が書かれた色紙を大切に掲げ絵いる人がいます。自分が生きていく上で大切にしたい生き方が書かれています。
これらは意識して集めることができます。
ところが、意識していなくても、「切りたくても、切れない。」「忘れたくても忘れられない」情報があります。
例えば、
・幼い頃に父親から言われた、友達に指摘された、死んだ母親の最後の、一言など
・懐かしい風景
・忘れられない味
・そそわれるあの匂い
・温かい母のぬくもり
これらは五感を通して、記憶の中に染み込んでいます。
また、価値観も同様です。
大切にしたい価値観は、別に無意識のうちに刺激されます。
・「思いやりを大切にしている人が、思いやりを感じない人に出会った時に反発したくなります。
・努力することを大切にしている人が、努力の結果、成果を上げた人の話を聞くと感動することがあります。
「こだわりのある状態」とか「本気になっている状態」では、このずーと大切にしたい情報が集まってくるように感じます。
これは、自ら求めなくても、周りがそれを感じるため、情報を提供してくれるのではないかと思います。
けれど、変化の激しい、今の時代、流行に流されやすくなっている人が多いように私は感じています。 気を付けていないと役に立たない情報だけでなく、自分を負に陥れる情報が増えてきます。
流行のゲームにはまる人
流行に乗り遅れないように買い物をする人
SNS(Line)にはまり遅くまで寝ない子ども
自分を見失わないためにも、本気になって情報を選択できる自分を築くことがとても重要だと思います。
本気なのか、本気でないのかは、その事は、自分が一番知っています。
そして、感じています。
このように考えると、本気になっている自分が、情報過多の今の時代を乗り越える力をもっているように思います。
幸せになって
科学の進歩は素晴らしいと思います。
実生活でどのように生きてくるのかわかりませんが、幸せを感じる人が増えるといいなあと思っています。
幸せな人とは、幸せを感じる時間が長い人だという話を聞いたことがあります。
幸せ感覚をたくさん感じなければ、特定部位が大きくなることはありません。
その意味から考えると、「幸せを感じる時間を長くすることが、幸せにつながる。」と言えます。
人を批判したり、自分を卑下することは、幸せな感覚を味わうことにはなりません。
「人を見て、すごいな。あこがれるわ。」と思えば、幸せな感覚になります。しかし、その先に「私は、なんてだめなんだろう。」と受け止めると、幸せからは遠ざかってしまいます。
反対に、「よし、私も頑張ろう。」と受け止めると、幸せに近づいていく感じがします。
自分自身の出来事でも同じです。できた事に焦点を当てると、「やった。」「できた。」と喜び幸せな気分につながります。
逆に「まだだめだ。」「こんな不完全ではいけない。」と自分を責めると幸せな気分につながりません。
私たちが日頃使っている言葉・・・外に向けて話す言葉だけでなく、内に向けて話す言葉の中にどれほど幸せな気分につながる言葉があるのか、見つめてみることが大切なように感じました。
まだまだ、幸せから遠ざかる言葉をかけることが多い自分に気づきます。
言葉で伝えること
私たちは、言葉を通して、相手に自分の意図を伝えようとします。
例えば、親が、子どもに言葉で表現できるように子どもを躾ける時には、
「ちゃんとその事を言葉で伝えなさい。」
「それでは相手に伝わらないよ。」
などという事があります。
子どもにも言葉で相手に自分の意図を伝えられる力をつけたいと思っているからです。
この場合、子どもの伝えたい意図がわかっているからこの言い方ができることになります。
もし、子どもの意図がわからなければ、この言葉を使わずに、まず、親は子どもの意図を探ろうと
「どういうこと?」
「よくわからない。」
と、子どもに尋ねることになります。
これは、親が子どもを育てようと、子どもの意図を探る努力するからできることです。
ところが、表現力が豊かになった大人同士の場合は、これとは、少し違っています。
自分の思いと相手の思いとが、異なる時には、このような会話にはならないことが多々あります。それは、親子のような上下の関係ではなく、対等の関係になるからです。
この場合、自分が正しいと言う立場になることが多くなります。そこで、自分が正しいと主張したり、説得しようと働きかけたりします。
また、時には、相手の考えの中に否定できる材料を探したりします。
自分を優位にすることで、自分の立場を守ることになるからです。
(優位にするには、自分を相手より上げるか、相手を自分より下げるかしかありません。)
相手が自分の考えを受け入れない状況が続くと、次第に感情が湧き上がってきます。
これの感情があると、相手とトラブルに発展することにもなりかねません。
これは、子ども同志の言い争いが、最後には喧嘩になってしまうという状況と似ています。
その時の攻め方は、次のようになることが多いようです。
相手の言葉の問題
↓
その言葉を使う相手の能力を否定する
↓
その能力を作り上げた価値観・信念を否定する
↓ ※自分一人で攻めきれなくなると仲間を巻き込むことがあります。
その価値観・信念をもった人間(アイデンティティ)を否定する
このように攻めるところが意識の深いところへと言葉を通して迫っていきます。
これは意識的というよりも無意識的です。感情がそうさせます。脳は、自分を守るために相手の深い部分へと攻めていく傾向があるようです。
これが、子どもの場合ならば、攻められた子どもは、いたたまれなくなって攻撃に転じ、力でねじ伏せてしまい、喧嘩になることがあります。
大人でも、身につけた価値観・信念やアイデンティティを否定された時に爆発することがあります。
このように対立した時の対応が大切になります。
相手を否定し始めたら要注意です。
感情が奥へ奥へと攻めていきます。
ここで感情のコントロールをしなければ、互いに認め合えない関係までになってしまいます。(自分を守るために拒否することになります。)
この時に大切にしたいのが、最初に挙げた親の子を躾ける時のあの視点になります。
つまり、相手の意図を探り、理解しようとする視点です。
もともと違う人間です。違って当たり前です。自分の考えを通そうと力を入れて、相手との壁を作ったために、理解できなくなっただけです。
相手を理解しようとすれば、互いの違いをどのように埋めようかと考える新たな視点を作り出すことができます。
互いに認め合える新たな視点が見つかれば、攻撃し合うことはありません。
私たちは、感情の動物ですから、すぐにうまくできるようになるとは限りません。失敗を繰り返しながら、学んでいくしかありません。
私も日々失敗の連続です。幸せな人生を送るためには、子どもを理解して対応しようとする母親のような視点が重要だと感じます。
子どもから離れられない
そして、中には、そのわが子が自分の分身のように感じる母親もいます。
実際には、そのように感じているお母さんが多いのかもしれません。
子どもが悲しんでいると、自分も悲しくなります。
子どもが喜ぶと、自分も嬉しくなります。
子どもとつながっていると感じるから、こんな気持ちになるのでしょう。
これは、とても素晴らしい感覚だと思います。
この感覚をわが子だけでなく、誰に対しても、もてるようになれば、幸せな世界になると思います。
私たちは、他人と自分とを分離して初めて、自分を意識します。
他人は、自分とは違う。
体験も違えば、身につけた価値観も違う。
だから、同じではない。
他人と同じだと考える事は、無理だ。
・・・・・
こうして自分と他人を分けて考えることで、自分らしさを引き出しています。
創り出した価値観の違いから、トラブルが起きると、自分の価値観を大切にしたいから、相手を否定することになります。
違いを作ったことで、自分を守らなければならなくなります。
守ることが正義のようにしているから、常に敵と味方を区別しようとします。
相手を悪にすることで、正しい自分を守ろうとします。
味方を増やして、自分を守ろうとします。
世界に目を向けると、そのために戦争をしている国もあります。
これは国だけでなく、地域社会や、個々の人との関わりの中でも同じように行われています。
政治でも同じです。職場でも、主義主張の違いから同じ仲間は守り、違う考え方は敵とみなします。
誰もが自分を守りたいのです。
もし、相手をわが子のようにつながりを感じることができたら、トラブルが起きるでしょうか。
わが子と同様に考えるとしたら、 人の痛みは自分の痛みになります。
震災後、ボランティアとして、東日本に向かわれる方がいます。
災害救助に当たる人がいます。
最近見なくなったと心配される近所の方がいます。
「あの人から、最近連絡は来ないけど、大丈夫かな。」と心配される方がいます。
入院をしている人を見舞う人がいます。
癌で苦しむ人を助けようとする人がいます。
つながりのある人には、優しい気持ちで接しています。あたかも自分が同じ体験をしているかのように相手を思いやっています。
「母子分離ができない」と言って、わが子と自分だけを見ていると、他人の存在が見えません。
他人をわが子と同じように見ることで、世界が変わります。
誰もが愛すべき存在です。
自分にとって都合のよい人だけ愛すればよいということではありません。
もし、自分があのような立場になれば、同じようにしたかもしれない。
もし、あのように追い込まれたら、ああするしかなかったかもしれない。
同じ立場なら、辛いだろうな、苦しいだろうな。
わが身に起こったことのように感じることができたら、出来事は、他人事にはなりません。
すべて自分事になります。
許すのではなく、わが身を愛するように他人を愛することになります。
その愛が自分を救ってくれます。
他人を責めることは、自分を責めることになります。
他人に感謝することは、自分を褒めることになります。
子どもとのつながりで悩まなくても、他人との関わり方に目を向けることで、子どもとの関わり方が変わります。
主導権を握りたがる
殆どの場合、子どもに主導権を渡すことなく、大人が主導権を握っています。
しかし、
「そんなこと、わかっている。」
「それなら、やったよ。」
「大丈夫だから、心配しないで。」
などと、
大人から見ると「本当は、わかっていないのに」「本当はできていないのに」と思えるにも関わらず、子どもが断言することがあります。
子どものこの言葉を聞いた時に、「嘘ばっかり言って」「ごまかしてはだめだ。」などと言い返したり、否定したりしたくなります。
もし、子どもが訴えたいことは、内容ではなく、「大人の言いなりになりたくない」という大人が主導権を握っている言葉への反発の発言だったとしたら、子どもの言葉に乗って言い返したり、否定したりすることは、子どもにとって、これでもかと主導権を握らせない大人の傲慢さを感じさせるだけになります。
どうせ、わかってくれない。
主導権を握りたいのでしょ。
となれば、子どもは、諦めるか、否定し続けるしかありません。
うまく子どもを育てるためには、あたかも、子どもが自ら考えて、判断し、実行したかのように思わせる育て方になります。
つまり、主導権を子どもに譲っているかのように思わせることです。
主導権を譲ってしまえば、放任になります。
あたかも、主導権を握ったかのようにというところがポイントです。
お釈迦様の手の上の孫悟空のようなものです。
これは、大人の対応の仕方で決まります。
子どもは体験が少ないため、願いをもってもうまく決めることができません。
考え方が未熟であったり、やり方が不器用であったりします。
こんな時に、選択肢を用意し、その中から選ばせます。
そうすれば、選択するのは、子どもですから、主導権を握ることになります。
ただ、選択肢を用意するのではなく、願いを通すための筋道を明らかにしたり、考え方を示したりしながら、選択肢を選ぶための判断材料を提供します。
よりよく生きたいと願っているのも子どもです。よりよい選択を選ぼうとします。
もし、選択が誤ったとしても、それを責めては、自信喪失につながります。
選択を誤って体験することが、今のこの子には、必要なんだと腹をくくり、温かく見守ることができれば、子どもは失敗を通して多くの事を学ぶことになります。
命に関わることでなければ、概ね子どもに選択させても恐れることはありません。
ちょっと道草をした程度です。
これが、お釈迦様の対応と同じ対応になります。
例 勉強しなさい
勉強するのは、子ども、させたいと思っているのが親
主導権を子どもが握りたがっているにも関わらず、「早く初めて、早く終わらせたい。」「遊ぶ前に勉強させたい。」「食事前までに終わらせたい。」などの気持ちがあると、どうしても主導権を握りたがる親がいます。
「わかったわ。」「今やるから黙っていて。」「うるさいな。」などと反発したくなるのが、子どもです。主導権を握らせてもらえないと思っています。
勉強する時間・・・帰ってすぐ、遊んだ後、食事の後、朝起きてから
子どもが選択した時点で主導権を握ることになります。
ただし、その責任を取るのも子どもです。
選択した通りにできれば、「あなたに任せてよかった。」「安心した」になります。「ほら、私にもできるでしょう。」と自信をもつことになります。
できなければ、「信頼されない」「叱られる」「嘘つき呼ばわりされる」等の自分にとって望ましい状況が生まれないことに気づかせる機会になります。
そして、できるようになるための学びの機会として、足りない点を教えることもできます。
ただし、決めてもすぐにいつも実行できる子どもにはなりません。何度も失敗を繰り返しながら、学びながらできる子どもになっていきます。
この失敗の繰り返しをお釈迦様のように見ていられるとあたかも主導権を子どもが握っていることになります。
これを許さないと主導権を奪いとれば、子どもは、主導権を握ることが許されず、親の言いなりにならざるを得ない状況になります。
失敗はするもの、失敗を繰り返すもの・・・・これを受け入れることができるか、親の力量が試されています。
日常生活に追われている毎日です。これは、大変大きな問題です。
大きなつけがこないうちに子どもに主導権を譲る振りをしてみてはいかがでしょう。
一人じゃない
時には、その判断に困って、人に相談する時もあります。相談して、よい知恵をいただいても、最後にそれを取り入れるかどうかの判断をしているのは、自分です。
決して他人が決めることはできません。常に決定権は自分です。
組織の中でも同じです。組織の約束に縛られると言いますが、その組織を選んだのも自分です。
教師の仕事は、かなり自由度が高く、縛られることよりも、個々に任されていることの方がかなり多いと思います。
職人のように自らの力を磨くことに魅力を感じるのもそのためです。
努力によって、子どもが変わる。・・・・・そんな楽しみがあります。
直接子どもと関わる担任は、それを肌で感じることができます。
担任から離れると次第にその感覚が薄れてきます。
これは、判断ミスを起こしやすくなる原因でもあります。
つねに担任でいる感覚をもちながら、でも離れた立場で子どもを見ているという感じでしょうか。
学校の中には、そんな立場で子どもを育てようとしている仲間がいると言うことです。
こどもを中心に組織が動いているうちは、トラブルが、少ないと思います。
しかし、子どもから離れて、教員の質の問題、環境の問題、防災の問題などと、様々な方向にエネルギーを使い始めると子どもにかけるエネルギーが、少なくなってしまいます。
学校には、力のある先生ばかりでは、ありません。ベテランの先生ばかりでもありません。いろいろな先生がいて、それぞれの先生のよさを生かしながら総力として、取り組むしかありません。
もし、あなたが一人で問題を抱えたとしたらそれは、問題解決を遅らせることになるかもしれません。
一人では、ありません。周りにいる人とうまく関わりを作りながら、効率よく問題解決の当たることでは、ないでしょうか。
そのためにも職場の人間関係が重要になります。
まずは、自分から心を開くところから始めましょう。
無理をせず、背伸びをしすぎず、自分の力に合わせて物事に取り組みたいと思います。
子どもは、1年で育つわけでは、ありません。時間をかけ、熟成するのではないでしょうか。
目の前に起きた出来事に失敗はありません。ただ、こどもにとって、学びがあるだけです。
子どもの学びの機会を奪っていることは、ないでしょうか。自分だけの立場で、判断せず、仲間と一緒にいることを念頭に起きながら、判断することが、判断ミスを少なくすることになるのでは、ないでしょうか。
共通の目指す方向性を持っている仲間です。互いに信じ合い、支え合い、補い合って生活したいものです。
もう一人の自分
それぞれ、自分の立場で物事を考え、判断し、行動しています。それが他への影響を与えています。
1つの出来事の問題解決には、様々な解決の方向があります。自分の立場だけを考えて方向を決めるのか、それとも多くの人の考えを考え併せて決めるのか、それも自分次第です。
動き出す前に、きっと思い悩んだり、苦しんだりすることがあると思います。
その感情も人によってさまざまです。嫌な感情が湧き上がることが多い人もいれば、ワクワクした充実感を感じながら、考え続ける人もいます。
何がよいとか、悪いとかということではありません。
今まで培った自分の価値観が感情を湧き上がらせるのです。
「こういう問題は、苦しいものだ。」→苦しい
「こういう問題は、知恵を出し合う楽しいものだ。」→楽しい
となります。
これも癖です。
ただ、感情が湧き上がるということです。
それよりも大切にしたいことは、その感情が湧き上がるまでの過程にあります。
一人で考えているようですが、必ずもう一人の自分が現れ、二人の自分が自分の中で対話しています。
この対話がとても大切です。
脳は空白を嫌います。
その空白を埋めるために「ああでもない。」「こうでもない。」
と様々な知恵を出し合ってもがいています。
ここに自分らしい知恵が一杯入っています。
この対話は誰にも真似することはできません。誰にも気づかれず、あなただけが知っている対話です。
どれだけ深く物事を考えて、結論を出すかということは、まさにこの営みになります。あなたらしい生き方がここにあります。
困ったら、「人に聞けばよい。」とすぐに結論を出す生き方をしていると自分らしさを磨くことにはなりません。
空白の時間を少しでも長く取り、自分らしさが湧き上がる素敵なもう一人の自分との会話を楽しんでみませんか?
たくましくなる
しかし、なかなかその支え合いを自覚する機会に巡り合えないことがあります。
することに夢中になっていると、その事と自分との関係で考えることが多くなり、他の人が関わることを嫌ったり、関わらないように避けたりします。
これは、遊びに夢中になっている子どもが、お母さんの「早く勉強しなさい。」という話を聞かない状況と同じです。
お母さんの子どもを思う優しい気遣いが、子どもには、邪魔になっています。ですから、「わかっている。」「うるさい。」などと言葉を返してきます。
教師としての仕事をしていても同じです。教材研究をしている最中に同僚や上司から別の話で、時間を割かれる時に、遊びに夢中になっている子どもと同様の気持ちをもつことがあります。
大人ですから、子どものようにはしませんが、内心は子どもと同じ気持ちをもっています。これは、人間ですから、仕方ないことです。
お母さんの言葉や同僚や上司の言葉をマイナスととらえるか、マイナスでないととらえるか(プラスとはなかなか考えづらいのであえてマイナスを否定しました。)は、自分次第になります。
自分の思い通りになることが安心・安全につながります。人からの刺激は、受け取る側次第でマイナスにもプラスにもなります。
誰もが自分を生かしたいと思っています。
その生かし方が分かれるということになります。
今しようとしていることを生かしたいと考えると、人からの刺激はマイナスになります。
今しようとしていることをやめ、人からの刺激を受け入れることが自分を生かすことだと考えると、人からの刺激はプラスになります。
優先する対象の違いが、プラスやマイナスになっていることがわかります。
この選択は、自分次第ということになります。
刺激を受け入れる自分か、刺激を拒否する自分かの選択です。
今の時代、激しい変化が起きています。その変化を受け入れることがたくましく生きることにつながります。
小さなことですが、目の前に起きている出来事を受け入れることができる自分を築くことがこのたくましさにつながります。
これは、刺激を受け入れる自分を選択することになります。
受け入れるには、柔軟性と創造性を発揮しなければなりません。
・相手の気持ちを察する・・・・・・・・創造性
・相手との関係を生かす・・・・・・・・柔軟性
・相手の言い分を受け入れる・・・・・・柔軟性
・自分の時間を別の時間に設ける・・・・創造性
これは我慢することではなく、創造性を発揮し、刺激をよりよいものと受け止めることになります。
これならば、ストレスは緩和されます。
我慢すれば、ストレスが溜ります。
ストレスを緩和するのも溜めるのも自分次第だということになります。
たくましくなることは、このストレスをおさえることになります。
子どもを育てるためにも、柔軟性と創造性を発揮し、サクサクと事を進めるたくましさを身につけたいものです。
幸せのエネルギー
私たちが何か事をする時、それを成し遂げる意志の強さが必要となります。すぐに達成できるようなものであれば、強制的にでもさせることができますが、やや困難な事となるとそれはなかなか難しいことです。
意志が弱ければ、やり続けることができず、途中で挫折することが多くなります。
する事に対する意志の強さは、一人一人異なります。
親が子どもに話す言葉に、「勉強しなさい。」「部屋をきれいにしなさい。」「自分の事は自分でしなさい。」「人には優しくしなさい。」「けんかをしてはいけません。」などがあります。これは、いつ終わるともなく投げかける言葉かけではないでしょうか。
できるようにしなければならないと思う根底には、何があるのでしょう。
これらは、端的な言葉で表現することができます。
それは、嬉しさ、愛しさ、苦しみ、楽しさ、気持ちよさ、恥ずかしさ、怒り、恐れ、憎しみ、ねたみ、焦り、優越感、不安感、劣等感、満足感、充実感など今感じている感情になってきます。
つまり、わたしたちの意志の裏にどんな感情があると、やり続けることができるかということになってきます。
これらの感情は、理屈(意志)ではありません。無意識に働く感情がそれをすべきことに立ち向かわせているということになります。
でも、感情をうまく説明することはできません。体験を通して感じるしかありません。
それでも、言葉で説明しようとするのが私たち大人です。する事に意味をもたせ、ねうちがあることをしていると思うことで事をする子どものする事への意志を強くさせようとします。
充実感や満足感がもてるまで、続けることになります。しかし、この裏には、「今はできていないから何とかしたい」という空虚感があることになります。
「〜ができない」からできるようにしたいと考えるのは、正にこれです。
できないという前提があるから、今取り組むことになります。
これでは、いつまで経っても終わりません。できて当たり前だと感じるまで言い続けることになります。
もし、これが、「〜ができる」からできて当たり前という立場ならば、ちょっと違ってきます。
できることが前提としてあるので、できないことに不安はありません。「〜ができるのだから、きっとできるはずだ。」と思えるので、できない不安よりも、期待する気持ちが生まれます。
「できないから」「できるから」と考えるのは、今の状況のとらえ方です。
つまり、どんな思い方をするかは、今の心の状態で決まるということになります。
プラス思考がよいと言われますが、これも理屈です。実感してプラス思考をしている人とプラス思考をしなければならないと考えて、プラス思考をしている人は違います。
プラス思考の人は、今の感情がよい状態になっているので、常に快として物事を考えます。しかし、プラス思考をしなければならないと思っている人の今はよい状態ではありません。(空虚)
私たちの今の状態が未来を創り出すことになります。
幸せを感じながら生きている人は、今が幸せですから、幸せな人生です。不幸を感じながら生きている人は、今は不幸だと感じているので、いつまでも不幸を感じながら生きていくことになります。
このように視点を変えるだけで、見えるものが違ってきます。
ということは誰もが幸せな人生を歩むことができるということになります。
今の幸せを探して、それを土台にして生きてみませんか?誰でも、必ずプラス思考で物事を見ることができるようになります。
子どもに幸せな人生をプレゼントできるのは、幸せを今感じているあなたしかいません。
子どもが求めている安心・安全は?
子どもたちが、学校生活で自分の力を出し切るには、安心・安全の確保が重要になります。
東日本大震災以降、防災や「絆」について叫ばれることが多く、そのために多くの時間を費やしている私たちです。
「命は、自分で守る」・・・これは、災害だけでなく、日常かかわる交通安全にかかわる意識についても同様です。
万が一に備えて準備を怠らないということはとても重要なことです。
しかし、現実に起こるわけではなく、万が一なのです。もし、このことに日々の生活の多くの時間を費やしているとすれば、これは、本末転倒のように思います。
目の前の子どもたちが求めている安心・安全は、万が一の場合の安心・安全ではありません。
家庭では、保護者や家族から温かい愛情をもらい、地域の温かい見守りの中安心して登校し、学校生活では、教師や仲間から認められ、支えられながら生き生きと生活することができることが重要だと思います。
仲間と安心して過ごせるだけの人間関係を築かせているでしょうか。
子どもが安心して教師に声をかけられるだけの関係を築いているでしょうか。
家庭では、虐待もなく、保護者の期待とは別に守られているという実感をもたせているでしょうか。
不安を抱えているこどもたちは、いないでしょうか。
元気で明るく毎日を過ごせるように私たちがまず考えなければならないことは、何でしょう。
打たれ弱い子どもたちが増えています。すぐに不安が身体反応として表れてしまいます。
将来の不安よりもまず、目の前の不安の解消に力を注ぐことで、将来を見据えた生き方ができます。
多くの保護者が子育てに悩みを抱えています。
不安を抱えていると子どもに直接影響が出てきます。
保護者とのかかわりが多くなればなるほど、不安の大きさを実感することになってきました。
子どもたちに明るい未来を提供できるのは、私たちです。
今暗ければ、明るい未来を想像することは、できません。
今明るくすれば、明るい未来は想像しやすくなります。
まずは、元気で明るい保護者の方々にすることが、急務のように感じています。
今の状態の不安解消に時間をかけることを最優先にしたいという気持ちがこみ上げてきます。
不安を抱える保護者対応に追われることはないでしょうか。
問題解決は、誰が?
そのため、みんなで情報を共有し、組織的に対応しようという流れが強くなってきています。
今、抱えている問題は、自分一人で解決した方がよいのか、それとも組織的に対応した方がよいのか、どちらを選択すればよいのでしょう。
組織的に対応することは、とても重要なことですが、この事が返って問題解決を複雑にして、解決に時間がかかったり、余計に複雑になったりすることがあります。
どんなことでも組織の力を借りて対応すればよいというものではありません。
今の状況が自分の手には負えないと言って、組織を使って何とかしようした場合、
・情報を伝えるための時間を工面することになります。
・共通の考え方や、行動について検討し、決定する時間が必要となります。
・刻々と変化する問題への対応が遅れます。
これらは、ある意味、今の問題の先送りになります。
今すべき事は何か、時間をかけてでも組織で考えなければならないことは何かを明確にしないと、今すべき手が打てずに手遅れになります。
時間が経てば立つほど、情報量は増えていきます。
本当に必要な情報なのか、全員が知る必要のある情報なのか、一部の者だけが知っていればよい情報なのかなど、提供する情報を検討しなければ、余計な時間を費やすことになります。
また、誰もがその問題だけに携わっているわけではありません。
その問題だけに集中することはできません。
ですから、本来、自分で解決しなければならない問題のために、関わって頂いているという思いをもつことがとても大切になります。
この思いがあれば、問題に対して常に主体的に動くことができるからです。
問題解決のために組織の中で、分担をすればよいと思って、問題解決に当たると、隙間ができたときにその隙間を埋めることができません。
常に主体的に動いていると、隙間ができても自ら、その隙間を埋めようと働きかけることができます。そして、その隙間を共有するために組織に働きかけることもできます。
常に自分の問題だと考えるその問題意識が、問題解決を早めます。
そして、この問題を組織的に取り組むことで、問題が解消されたというしても、ここで自分に力を付けなければ、同じような問題が再び目の前に現れることになります。
つまり、問題の本質を見ず、現象面だけの問題解消をしていることになります。
例えていうならば、火山の噴火のように、マグマだまりがあれば、一つの火口を塞いでも、別の場所から噴火します。
マグマだまりを取り除かない限り、噴火は続くことになります。
常に本質を見つめ、その本質から見て、どのような対応をすればよいのかを考え、自分に力を付けることが重要になります。
組織も同じです。情報の共有を行っても、本質がどこにあって、どのように組織として動くのかを決めなければ、繰り返し起きる問題の対応に負われ、組織自体が疲弊してしまいます。
自分に問題解決ができないと思っているのは、思いこみでしかありませんん。できないかどうかは、問題解決に当たる前に決めるのではなく、問題解決に取り組んだ後に決めることです。
自分の力を信じて、まず問題に立ち向かう自分を作りたいものです。
自分に自信がない状態では、どんな事に対しても前向きになることはできません。これは、誰もが経験していることです。
問題が解決できないと取り組む前に考えたとしたら、まさにこの自信のない今の状態の中で問題を見ているだけなのです。解決できない訳ではありません。
うまくいかなかった時
それをつかむことが、うまくいくための学びになります。
うまくいかなかったときに、どんな心の声が聞こえるのでしょう。
ここがポイントになります。
「うまくいかなかった。失敗だ。」
ここには、辛さがきっとあるはずです。
「何をするとうまくいくのだろう。」
ここには、期待があるはずです。
実は、それぞれの言葉を発した時の感情の違いがその後の取り組みを決めています。
自分にどんな言葉をかけているのか、
これは、癖のようなものです。常に何かの結果を得た時の自分への言葉かけが自分の人生を決めてきたのです。
この1年間を振り返って、自分にどんな言葉を多くかけてきたのでしょう。
自分の癖に気づくことから、次の歩みが決まります。
ストレスが生活に影響を及ぼしている
私たちは、ストレス解消のために、ストレスの原因を探り、その原因を取り除こうとします。
しかし、これでは、ストレス解消までにかなりの時間が必要となります。
ストレスの原因を解決するまで、ストレスを抱えたまま、生活をし続けることになり、これでは辛い日々が続きます。
ストレスは、感情となって現われます。この感情が問題です。感情は、過去の事であっても、未来の事であっても、「今」現われます。
感情には、「今」しかありません。
この「今」の感情が、仕事や家庭生活などに影響を与えているのです。
そこで、ストレスの原因となる事象とは切り離して、感情のみを扱うという考えをもってはいかがでしょう。
つまり、今感じている「辛さ」「苦しさ」「イライラ」「悲しさ」などをコントロールするということです。
感情の座は、一つしかありません。感情を「和らげる」「別の感情に置き換える」「消す」などの方法によって、ストレスから生まれた感情を変えることができます。
事象とは無関係にその感情を変えることができれば、少なくとも、他に影響を与えることはなくなります。
うまく感情をコントロールし、生活に影響を与えない生き方をしたいものです。
短時間で感情をコントロールできれば、他の事象に与える影響も少なくなります。NLP心理学を学んでから、私は、感情のコントロールが今まで以上にうまくなったと感じています。
変化を受け入れる
そして、私たちは、その社会でも通用する力を子どもに身につけさせなければなりません。
これは小手先の技術ではありません。
マニュアルに沿って生きることでもありません。
正しいと信じていることが正しくないと言われることもあるかもしれません。
どのように変わるかわかりませんが、変化の激しい社会であることには、変わりありません。
変化を嫌っていては、前に進めません。変化を受け入れられる自分を作り出すしかありません。
誰かが言ったからそうするわけでなく、自ら判断し、その判断に責任をもち、誠実に行動することになります。
変化を受け入れるのも自らの判断です。
手本となる私たちが、変化を受け入れ、柔軟に対応する姿勢そのものが、子どもの見本となります。
そのためには、まず、自らが変化を作り出す自分を見せることから始まります。
何かに挑戦している姿を私たちは、子どもに見せているでしょうか。
これは、生活の中にある些細なことでも同様です。
・家事の中にもあります。
洗濯に追加う洗剤を変える、スケジュールを変える、食器の並べ方を変える、調理器具を変える等
・仕事の中にもあります。
仕事の手順を変える、付き合い方を変える、記録の仕方を変える等
・子どもとの関わりの中にもあります。
躾、会話に使う言葉、身の回りの物、関わり方、人との関わらせ方等
生き方を示すことは、次の質問の答えを用意することになります。
何を変化させたのか
どんな願いが、変化を促したのか
変化させることにどんな意味があるのか
変化させることによって、どんな影響があるのか
変化させることによって、得たもの、得られるものは何か
変化させることによって、失うもの、失ったものは何か
変化させることによって、何を感じるのか
変化させることによって、自分や周りの人にとってよかったことは何か
生き方は、良し悪しに関わらず、必ず関わる人に影響を与えます。
そのため、これらの質問に答えた後に、変化を続けるべきか、変化を止めるべきかを誠実に判断することになります。
誰もが完璧ではありません。失敗することもあります。しかし、その失敗は次につながる学びの機会でもあります。
挑戦する姿を子どもに見せることに意味があります。
あなたが挑戦することで、子どもが、変化を実感することになります。
そして、その時「私は、あなたの幸せを願っているから、変化せざるを得ないの。」と伝えたいと思います。
なぜ、授業を延長するのか
そして、子どもに学習内容を習得させるために日夜努力を重ねています。
授業以外の様々な取り組みのため、学習内容を習得させるために努力できる時間が短くなっているのも悩みの種でもあります。
それでも、できる限りよい授業をしようとできる範囲内で授業改善の努力をし、子どもと向き合っています。なかなか思うようにならず、試行錯誤を繰り返しながら毎日努力をしています。
「今日は、これだけの準備をしたから、必ずうまくいくはずだ。」などと意気込んで授業に向かおうとしていると、学級でトラブルがあり、せっかくの授業準備も台無しになってしまう・・・・などという事も日常茶飯事です。
年間指導計画に沿って、教えなければならない内容があり、日々その内容を習得させるためにしなければならないことがあると考えていると、どうしても今教えなければならない内容は、この時間にキチンと教えなければならないという思いとも重なり、どうしても授業が延長してしまうことがあります。
その思いがあるためどうしても授業が延長してしまう、という学級をたくさん見てきました。
授業を延長してしまうというのは、延長させてでも、子どもたちにこの内容を教えたいという強い教師の思いに支えられています。
しかし、これはある面、おごりではないかと感じます。
子どもたちは、そんな教師の強引さを常に見ていることになります。自分の都合で授業を進めているようにしか映っていません。
そうではない。あなたたちのために大切な学習内容を習得させるために時間を費やしているのだから、決して私の都合ではないと反論するかもしれません。
しかし、ここに、大きな落とし穴を発見することができます。
学習内容は決まっていますが、学習方法については、決まっていないのです。
ここに私たちの工夫改善があります。この授業改善は、よい授業を築くための工夫改善だけでなく、短時間でいかに学習内容を習得させるかという工夫改善も含まれています。
つまり、自分の型で推し進めていくために授業が延長してしまうというこことが往々にしてあるのではないかと感じています。
これが落とし穴です。
教師は、長年培った自分の型をもっています。この型が邪魔をしています。
自分のやり方で学習を進めることが学習内容を習得させる近道だと思い込んでいるために、自分の型を貫き通すことになります。
よい授業を進めるには、ある程度の時間が必要になります。教師は、よりよい授業作りを目指して時間を費やしています。そして、授業観を作り上げていきます。その授業観を崩すことはできないと考えていることはないでしょうか。
時間がない時、十分時間が保障されている時、いろいろな時にいつでも使える授業の型などありません。型は万能ではありません。条件がうまく整っている時にできる型です。
授業は生き物だと言われます。時間も子どもの状態も日々状況が異なるからです。
それでも、プロとしてよい授業を目指すために自分の授業の型作りを目指します。
プロとしてそれはそれで素晴らしいことです。
よい授業にはならないかもしれないが時間がないから、これだけは、子どもに身につけさせてこの時間は終わらなければならないと考えて、行う授業も必要なのです。
本当のプロというのは、この柔軟性を発揮している教師のことを言うのではないでしょうか。
短い時間に何を教えてれば、よいのか。瞬時に判断し、描いていた授業を作りかえ、時間内にそれを教えていくことのできる授業に組み替えることができれば、授業を延長することはありません。
その内容の見極めには、教科の内容に関わる深い造詣がなければなりません。そしてまた、教科の内容だけでなく、深い児童理解も必要になります。
今の状態ならば、この事だけを学ばせ、自分の意志で学習内容を習得させるための繰り返しを自ら取り組める子どもにしておかなければ習得は難しくなる・・・・そのためには、子ども自身がその危機感を感じとれる子どもになっていなければならないと考えるのです。
家庭での学習を余儀なくされても、家でしてきたくなる子どもに育てておけば、何の支障もありません。
つまり、子ども自身が、「今日は、トラブルがあったので、その欠けた分をどこかで取り戻さなければならない。」という授業観をもった子どもに日頃から育てていなければ、できないのです。
授業はする側と受ける側の両者によって成立します。教師だけの努力では成立しません。子どもを鍛える必要があります。
授業をする側としての自分の姿勢だけでなく、授業を受ける側としての姿勢を身につけさせることが子どもを育てることになり、子どもの授業観を高めることになります。
これが、授業の質を高めていくことになります。
授業が延長すると怒る子どもに育てているでしょうか。(休み時間を保障してほしいということではなく、決められた時間に決められたことをするという姿勢からの指摘できる子どもとして)
授業中にトラブルがあって、授業が短くなって喜ぶ子どもがいては困ります。
授業中にトラブルを持ち込む子どもがいても困ります。
トラブルを授業まで引きずる子どもがいても困ります。
みんなの大切な時間を大事に使おうという子どもだと安心できます。
一人でも欠けていたらみんなの授業にならないと考える子どもだと心強く思います。
少しでも早く解決して、みんなで授業をしたいという子どもでないと困ります。
その前提として、教師自身の授業に向かう姿勢が重要になります。教師自身が手本にならなければ、子どもが真似することもありません。
まずは、授業を延長しない教師になることを目指すことが重要です。
これは、かなり苦しいことです。しかし、この壁を乗り越えると、今までとは異なった授業像が見えてきます。
授業の本質が見えるようになります。
分析的に授業を見ることもできるようになります。
子どもが見えるようになります。
授業づくりは日々の努力だと改めて考えさせられます。
子どもと一緒に行事に参加する
秋には、地域行事がいろいろあり、親子で参加できる機会が増えていきます。
しかし、仕事で疲れていて、休みの日ぐらいゆっくりさせてほしいと思っている方も多いのではないでしょうか。
子どもからすると親とはちょっと違って、休みだからこそ、家族で一緒に過ごしたいと思う子どももいます。
自分の世界があって、子ども同士で楽しみたいから、親から離れていく子どももいます。
子どもの状況によってかなり異なります。
ゆっくり休むか否かは、子どもの状況をつかんだ上での話にした方がよいと思います。
子育ての大変なところはこんなところにも出てきます。
ただし、行事に一緒に参加することで子どもが育つことは間違いありません。
子どもの状況をつかむということは、どういうことでしょう?
例えば、鎖につながれた犬をイメージするとよくわかります。綱をもっているのが親で、鎖につながれたのが子どもだと考えます。結んだ綱の長さが、子どもとの距離になります。
綱が短ければ、活動する範囲は、狭くなります。綱が長ければ、活動する範囲は広がります。
幼い頃は、綱が短い方が子どもは安心して生活できます。そして、子どもが成長し、自分の生きる社会に慣れ始めると、次第に綱の長さを長くしていきます。
子どもが子どもの世界を作るには、前提として、綱が短い時代があります。
いきなり綱を長くしたり、鎖を外したりすれば、途方にくれてしまいます。
一緒にそばにいることで、親の親の愛情を体全体で受け止め、親の声や親のしぐさなどを受け止めながら、親の生き方を体で感じています。
親子の関係は、この綱の引き合いになったり、緩め合いになったりします。
子どもが寂しがっている時には、綱の長さは短い方がよいことは誰もがわかります。
行事に子どもと一緒に参加する機会は、この綱の長さを調べる機会になります。
今はどの程度の綱の長さがあるのか、引けばいいのか、緩めればいいのか、それを探ります。
まだまだ、教えなければならないことがあるとすれば、一緒に行事に参加して、自分の生き様を子どもに見せることです。
・誰に挨拶するのか、子どもは見ています。
・一つの取り組みに、どのような参加の仕方をするのか、見ています。
・事が起こった時に、どのように対処するのか、見ています。
・他者にどんな対応をするのか、見ています。
・お金はどのように使うのか、見ています。 等
そして、その生き様を参考にしながら、子どもは、生きる知恵として親から学んでいます。
意識しなくても、無意識のうちにしていることがすべて子どもの生きる知恵になっています。特別な事をするわけでなく、日頃の自分そのものが見えるということです。
選択肢はいろいろあります。あなたは、子どものためにどの道を選ぶのでしょう。
・地域行事を、知らないで済ませる。
・地域行事は、知っているが言い訳をして参加しない。
・地域行事に、仕方なしに参加する。
・地域行事に、積極的に参加する。
行事を通して、子どもの育ちを感じると、「この子のために頑張ろう。」「子どもこれだけ頑張っているのだから、負けていられない。」などと仕事への意欲を高めることができます。
休日だからこそ、子どもからパワーをもらい、仕事への活力にすることができます。
頑張れ!お父さん、お母さん。
友達の作り方
特に、小学校の中学年になると社会性が伸び始め、友達との関係を求めたり、大事にしようとしたりするようになります。
自分の大切な友達を取られたくない。
仲良しの友達を作りたい。
気になる友達がいる。
よく遊ぶ友達が決まっている。
相談できる友達がほしい。
友達のそばにいたい。
など
心の中に友達を意識した言葉が増えてきます。
私たちの脳は、安心・安全のためにはたらきます。
友達を選ぶ時も同じです。
よく「類は類を呼ぶ」と言いますが、子どもは本能的に自分と似ていると安心しますので、そのような状況にある友達を選ぶことが多くなります。
状況は様々です。似ているといっても様々です。
例えば、
動くことが好き
同じものに興味がある
友達が欲しいと思っている
一人ぼっちな状況になっている
同じような境遇になっている (家庭の状況、友達関係、教師との関係)
近くにいることが多い(登下校、家が近い、同じクラス等)
など様々です。
そのような仲間といると、何となく安心して生活できるので、心地よさを感じます。でも、本当は自分で選んだわけではありません。状況に反応して作られた関係だと考えることができます。
友達を求めるこの時期だからこそ、いろいろな仲間と関わりをもち、友達を選ぶ目を養うとよいのですが、自然の流れに任せているとなかなかそれはできません。
一緒に遊ぶ仲間から一緒に遊ぶ友達へ
一緒に学ぶ仲間から一緒に学ぶ友達へ
一緒に仕事をする仲間から一緒に仕事をする友達へ
と、仲間から友達へと一歩近づいていくようにするためには、関わり方を教える必要があります。自然に任せるとその時の感情に左右され、好き嫌いで友達を判断してしまうことがあり、人間関係を深めるまでには至りません。
それぞれの状況の中で、どうのように立ち振る舞うかが大事になります。
・一緒にすることが楽しいと思えること
・一緒にする活動での役割を誠実に果たすこと
・一緒にする活動で湧き上がった感情を共有すること
・相手のために力を発揮することが心地よいと思えること
・よりよい活動にしようと知恵やもっている能力を発揮すること
これらは、子ども同士の関わる場面をとらえて、刺激を与えながら、教えることになります。
すると、刺激を与えながら、教えた結果として、子どもが、仲間を「大丈夫?」と気遣ったり、「私が〜しようか。」と支えようとしたり、「わかったよ。」と人間関係を深めようとする言葉が増えてきます。そして、相手を気遣い、仲間を大切にする気持ちが相手に伝わり、人間関係を深めたくなっていきます。
この言葉が出やすい状況にするのが私たちの役割です。
例えば、
一緒に遊んでいる時に起こるトラブルを解消するときの視点がそれになります。
「〜しなさい。」「謝りなさい。」「お互いに許してあげなさい。」と起きたトラブル解消のための言葉かけではなく、
「そうしていると一緒に遊んでいて楽しい?」
「仲良くなりたいなら、何をするの?」
「友達に喜んでもらえることは、何?」
「友達のためにできることがあるはずでしょ。」
などと声をかけることができます。
また、一緒に仕事をしている時に起こるトラブルを解消するときでも同じです。
「〜しなさい。」「リーダーの言うとおりにしなさい。」「フォローアーならば、〜すべきです。」などとトラブル解消のための言葉かけではなく、
「そうしていると楽しく一緒に仕事ができるの?」
「それが、友達が喜んでくれるためにしていることなの?」
「楽しい仕事をするためにあなたは何ができるの?」
「もっとよい仕事ができるため、どんな知恵や力を出したらいいの?」
などと声をかけることができます。
仲間関係を深める言葉を使えるようにするためには、子どもが使いやすい状況を作り出すこのような言葉かけがとても大切になります。
あなたは、トラブルが起きた時、子どもにどんな言葉をかけているのでしょう?
素直になれない
そして、まだ、興奮が冷めやらないうちに
母 「これ好きでしょ、食べなさい。」
と、言っても
子 「そんな不味いもの嫌い。食べない。」
と、言い返します。
すると、
母 「そう、食べないの。それならいいわ。私が食べるから。」
と、言い返します。
子どもは、本当は食べたかったにも関わらず、素直に「食べたい。」とは言えず、好きなものを食べ損ねてしまいました。
よく見かける光景です。
これは、子どもの感情が意識を上回っているため、意識とは反する言葉を吐いてしまいます。
ちょっとした会話ですが、子どもはよくこんな事をします。
子どもは、大人よりも言葉が少ない分、感情に動かされ易くなります。
そのため、感情が優先されてしまうことが多いのです。
これを「言葉で、きちんと伝えないあなたが悪い。」と子どもを責めても、仕方がありません。
実は、感情に左右されるのは、子どもだけではありません。大人でもそうです。
あなたもその一人です。
嫌いな人の「ためになるいい話」を「ためになるいい話」として素直に聞き入れることができますか?
できないはずです。
子どもは、この状態がかなり多いということです。
「好き」でも、嫌なことが起こると「嫌い」とすぐに言います。
「やれ」と言われると、「いや」と反発します。
まともに言葉通りに受け止めていると、子どもは、次第に親から離れていきます。
本当は、止めて欲しいのに、止めてくれない。
本当は、やりたいけど、やらせてくれない。
本当は、嘘をつきたくないけど、嘘をついてしまう。
本当は、素直に言いたいけど、ごまかしてしまう。
子どもの口から出る言葉には、言葉以上の思いが隠されています。でも、今の感情がそれを表すのを邪魔している感じです。
だから、親が正論を言っても、素直に従うことなく、正論を覆し、屁理屈をいう子どもになっていきます。
言葉だけでやり取りしようとすると、子どもの心がつかみにくくなります。
子どもを理解するには、言葉以上の思いを含んだ言葉を理解しなければなりません。
そのためには、まず、感情に寄り添うことになります。
感情が高ぶっている時には、子どもの言葉からは、素直な言葉は見当たりません。言葉のやりとりをしていると余計に離れていきます。
まず、感情が静まるのを待つしかありません。
一緒にそばにいて、感情がおさまるのを見守るしかありません。
今の時代、「そんな悠長なことは、言ってられない。こちらも忙しいんだ。」とおっしゃる親さんの声が聞こえそうです。
でも、本当は、ここが大事なのです。
「お母さんは、私の事を理解してくれない。」と言って、親から離れていきます。
反抗期と言われるお子さんの反発もこれに似ています。
感情と向き合うことが、子どもが素直になれる秘訣です。
子どもの心を察する親でいれば、子どもが離れていくことはありません。
子育てする時間=親の生き方を見せる時間
子どものために一生懸命に働き、子どもの力を伸ばすために、塾に通わせている保護者がとても多いと感じてます。子どもの1日の生活時間を考えてみると、学校生活、塾、睡眠を除くと、家庭での生活時間が出てきます。
家庭での生活時間は、食事、入浴、団らん等に使う時間になります。もし、子どもが、テレビやゲームに夢中になっているとすると、意図をもって子どもを子育てできる時間は、ほんのわずかな時間になっています。
子育てをする時間は1日どの程度あるのでしょう?
(食事、入浴、団らんが子育てをする時間になります。)
わが子がわが子らしく育つためには、社会がいくら変化しても、やはり家庭での教育が基盤になります。
新しい世界に飛び出す時、不安で一杯になります。
そんな時にその世界で生き続けている親しくできる人がいると、まずその人を真似ようとします。ただし、これは、家庭を離れて、社会に出る時の話ではありません。
子どもが生まれた瞬間から始まる、人間社会への対応の話です。
もちろん、その世界で生き続けている親しい人は、親になります。
その親の一挙手一投足を真似ながら、子どもは、生まれたこの世界で精一杯生きていこうとします。
ですから、家庭教育は、まさに親の生き方そのものです。
常に子どもから見られている存在なのです。(子どもは親の言う事よりもする事を見ています。)
ですから、子どもと過ごす時間が短いならば、短いなりに質を高めて、子育てするしかありません。
親自身が自分の質を高める姿を子どもに見せていれば、自ずと子どもは自分の質を高める姿を見せてくれます。これが、子育ての近道になります。夢をもち、目的意識をもちながら、毎日を楽しく明るく過ごすことが子どもの手本となるということです。
子どものためにも自分自身を高め、明るく元気で毎日を過ごしたいものです。
我慢すること
私たちは、一人では生きていけません。必ず誰かと関わりながら生きています。そのため、自分の思い通りにいかないこともたくさんあります。そこで、我慢することを覚えます。
我慢ができず、自分の我を通そうとすると、トラブルになることがあります。
もし、トラブルにならないとすれば、相手が我慢をしてくれているからだと考えることもできます。
そう考えると、私たちは、互いに我を通したり、譲ったりしながら、心地よい気持ちで過ごしながら、相手とうまく関係を築いているように思います。
この考えをあてはめると、すぐ切れる子は、我慢が足りないという事になります。
我慢することをマイナスだと考えていると、我慢したくないと考えがちになります。
我慢することでプラスになることをたくさん作れば、我慢することはそれほど苦にはならなくなります。
例えば、我慢すると
・自分の気持ちを抑える力が身に付く。
・相手の気持ちを受け入れる幅ができる。
・相手との関係がよい状態で保たれる。
・我慢強さが身に付く。
・高い目標を叶えるための粘り強さが身に付く。
・目先の事への執着が少なくなる。
・広い視野で考えられるようになる。
・物事を理解する時間を作ることができる。
・受け入れてもらえる人だと思ってもらえる。
・新しい発想で物事をとらえることができる。
・問題解決する能力が伸びる。
・豊かさが身に付く。
・感謝されることが増えてくる。
まだまだありそうです。
見方を変えると、どんなことでも受け入れられるように感じました。
さて、あなたは、我慢する人でしょうか?
力で抑えつけていませんか?
「これは、躾だ。」と思っての事だろうと思いますが、これは、勘違いです。
躾には、行動とその行動の意味づけが必要です。
例えば、整理整頓ならば、物が決まった場所に整理されている姿を見た時に、美しいとか気持ちがいいとかという感情が湧き上がってきます。
その感情が湧き上がってくるためにどのような行動をするのか決まっているときに躾けられたということになります。
時間を守ることでも同じです。
時間を守れた時に安心感や充実感などが現れてきます。時間を守るための行動がその前にあります。
これらは、力で強引にできるようにしても身に付くことはありません。
叱られたくないから、褒められたいからなどという考えで子どもが動いたとすれば、必ずどこかで反撃を食らうことになります。
例えば、影ではそのような行動をしないとか、見ている時だけ頑張るとかという行動になって現れます。これは、本質ではありません。
インパクトと繰り返しによって子どもは躾けられます。
ですから、子どもとの根気比べをすることになります。ほんの少しの変化をとらえて、「あなたならできる。」と声をかけ続けることが繰り返しになります。強い刺激はインパクトとなりますが、躾けられた成功体験を記憶に強く残るような演出をすると効果的です。
子どもが「生かされている」、「役に立っている」と思った時、躾が成功した場面になります。素晴らしい子どもの姿を頑張りの姿として一緒に喜び合うこともインパクトになります。
子どもは親のする通りに育ていますから、力に入れずに子育てができると思います。焦る気持ちの裏には、エゴや見栄が見え隠れしています。
焦らず、じっくりと子どもを見ながら、頑張りを褒めると躾の効果があがります。
学び続けること
私たちは、子どもに学力を身につけさせるために、家庭でも学習が身に付くように宿題を出しています。子どもたちは、素直にそれを受け入れ、取り組みます。保護者も学習の大切さがわかっているので、学校から出された宿題を子どもにさせようと協力してくれます。
しかし、これが慣れ過ぎると、「宿題を出してもらわないとうちの子は勉強しない。」「教は、宿題がないから遊ぶ。」「宿題が勉強だ。」等と宿題に依存する姿が生まれます。
これは、子どもにとって不幸です。
勉強は辛いものだ。
勉強は難しいものだ。
勉強は嫌いだ。
できれば、勉強はしないでいたい。
などと子どもたちが感じるようになってしまっては、これからの時代を生き抜く子どもを育てることにはなりません。
他人任せで勉強しているために、このような姿になってしまいます。
私たちの生活は、すべて学習することで成り立っています。
生活習慣を身につけることも、趣味をもって生活することも、ライセンスを取得することもすべて学習です。
本当は、
知りたい。
わかるようになりたい。
できるようになりたい。
という心があるから学び続けられるのです。
宿題一つとっても同じです。
宿題をどのように取り組んだのか、わかりたい、できるようになりたいという思いに応える体験になっているかどうかが見極めることが必要です。
お母さんが叱るから宿題をする。
先生に怒られるから宿題をする。
友達に負けたくないから宿題をする。
〜がもらえるから宿題をする
となっては大変です。
地道に努力するあなたが素晴らしい。
わからないときにわからないと言えるあなたが素晴らしい。
困った時に何とか解決しようと頑張るあなたが素晴らしい。
時間通りに始められるあなたが素晴らしい。
したい事を我慢してでもやろうとするあなたが素晴らしい。
将来を考えて、今すべきことをしようとするあなたが素晴らしい。
めあてをもってやり切ろうとするあなたが素晴らしい。
自ら進んで学習しようとするあなたが素晴らしい。
粘り強く何度も繰り返し力をつけようとするあなたが素晴らしい。
・・・・
宿題に向かう子どもの姿の中に必ず「わかりたい。」「できるようになりたい。」という気持ちが見える姿が必ずあるはずです。
「学習をし続けるために、今この子には、何が必要なのだろう。」
「どんな気持ちで取り組ませると、この子は学習し続けるのだろう。」
「学校と家庭がどう支えると、この子は楽しんで学習するのだろう。」
「宿題は、与えられたことをこなすこと」として、宿題を考えるには、とてももったいない話です。
宿題を通して、身につけさせたい内容はたくさんあります。
宿題がなくても、自らの課題解決のために学習をし続ける子どもに育てる要素が、宿題の中には隠れています。
宿題を通して、どんな心を育てているのでしょう。
育てた心の違いが、宿題をする子どもの姿となって現れてきます。
子どもの姿を見れば、どんな心を育てているかが見えてきます。
早く済ませたいと思えば、字は乱雑になります。
反対にめあてをもって取り組む子どもは、意欲が学習している姿に現れます。
これは日頃の指導の結果です。宿題の出し方、取り組ませ方に工夫が必要です。マンネリ化が子どもの学習を停滞させます。
学び続けるかどうかは、宿題を出す側の問題ということです。
執着していませんか?
綺麗好きな子になってほしいと思えば、常に綺麗な環境を整えたり、綺麗に整える技を教えたり、整っていない環境に対して、嫌悪感をもって接したりします。
時間を守ることの大切さを伝えたいと思えば、一度の失敗も許さない程の勢いで、子どもと向き合い、決して時間に送れることを許しません。遅れた時には、徹底して責め、二度と失敗させないように叱ったり、新たな約束を作ったりします。
しかし、そこまで徹底しないと伝えたいことが身につかないかと言えば、そうではありません。
自分の価値観に執着しすぎると、その価値観で自分を責め、生きづらくなります。
幸せな人生を送ってもらいたいと言う気持ちが根底にあるにもかかわらず、この価値観が生き方を狭め、苦しめる結果になります。
誰でも失敗することがあります。失敗しない人生などありません。その失敗から学ぶことを大事にした方が、本当は、幸せにつながります。
価値観に執着しているのは、失敗を恐れているからです。
失敗してもOKと考えれば、10回中2〜3回失敗しても価値観が失われることはありません。
10回全部成功しないと価値観が身につかないと考えているから苦しめることになります。
2〜3回と判断しましたが、ひょっとすると4回でもOKかもしれません。価値観を大切にするかしないかどちらか選択するときに価値観を大事にする選択ができればよいのですから、選べない状況の5分5分よりも少し回数が多ければ大切にしたい価値観を選ぶことになるからです。
その程度の力の入れ方で十分です。
力みすぎていませんか?子どもを苦しめていませんか?
子どもを道具にしていませんか?
私たちは、形に慣れすぎてしまうと、当たり前として扱ってしまい、何故それを大切にしているのか、価値観を子どもに伝えずに形を確認してしまうことがあります。子どもを育てるためには、子ども自身が形に意味づけをし、それが大事だと自分自身が考えたり、感じたりして、行動させることが重要になります。
子ども自身が大切だと思っているのか、それとも教師が大切だと思っているか、これはとても大きな違いになります。
子ども自身が、「だって、〜だから。」と形に意味づけをして、行動して初めて、育ったことになるからです。(教師が意味づけをして、行動させていることは、育ったことにはなりません。)
私は、時々意図的に、授業の開始時間に遅れて教室に入ることがありました。
「先生がいても、いなくても、始業時刻が授業の始まり」と子どもに伝えてあり、そのための具体的な取組を育てたつもりでいるので、子どもがそのように動くかどうかを確認するためです。
「始まったら、できることはないか。」と子どもたちに問い、教科書を読んだり、国語や算数ならば、ドリル学習をしたりすることができるということを決めてあります。
それが、行動として、できるかどうかを確かめるのです。廊下で子どもたちの様子をうかがっている時間が一番楽しい時間です。期待と不安が入り混じっていますが、子どもたちは裏切りません。
子どもたちで授業を進めるまでには、かなり時間が必要ですが、授業の始まり程度のことならば、わりと簡単にできます。
このように子どもが育ったかどうかは、教師のいない時の子どもの姿でわかります。
始業時刻を過ぎても、教師を待っている姿は、自ら学ぶ子どもの姿ではありません。
子どもがどんな姿になればよいのか、きちんと子どもに伝え、その方法を身につけさせて初めて、子どもを育てたことになります。
担任の前だけでいい姿を示す子どもでは、育ったとは言い切れません。
自習や出張で補充の方に入ってもらう時こそ、子どもの生の姿が見えます。
授業がしやすいようにルールを決めることがありますが、それも同じです。子どもを教師が使っているのか、それとも子どもがその姿を求めているのか、どちらかを見極めることが大切になります。
全員挙手でも同じです。一斉に挙手する子どもの姿を見て、「よく育っている。」と感じる人もいれば、「何となくやらされている感じがする。」と感じる人もいます。
子ども自身が価値を見出し、自らその姿を望んでいるのならば、担任がいてもいなくても、その姿を目指します。
価値観を緩める
「あの先生は、〜については厳しい。」「絶対に許してくれない。」などと子どもたちがとらえるほどの強烈さをもって接することもきっとあるのではないでしょうか。
「授業中に席を立たない。」
これは、教師として当たり前の事だととらえますが、教師によってその対応が異なります。ここに価値観の違いが生まれます。
このことの重要度が高い人の中には、一度でも立つ姿を見かけると、血相を変えて叱ります。中には、理由も聞かずに叱る方もいます。
何度も立つ姿があると、そばに行って手をつかみ、強引に席に座らせようとされる方もいます。(立ち歩きが少々あると、その行為そのものが許せないという気持ちが高ぶり、感情的になってしまいます。)
もし、けがでもさせれば、傷害の罪になりかねません。そんな危険が潜んでいます。
本当にそこまで厳しくしないと子どもは、「授業中に席を立たない。」というルールを守れないのでしょうか。
子どもは、「授業中に席を立たない。」ということは、わかっています。「わかっていても、できない。」・・・こんな子どもはたくさんいます。
できない理由は、必ずあります。
その理由を聞けば、許せることもあります。
理由を聞いても許せないこともあります。
しかしながら、
低学年の子どもならば、いろいろなことに興味を示すことがあり、授業からずれることがあります。
子 「アッ、虹だ。」
教師 「わあー。きれいだね。みんな見てごらん。ほら。見えるかな?立ってもいいよ。」・・・少し経ってから「そろそろ授業にもどろうか。」
授業からずれた子どもを早く授業に戻すために、子どもの興味に乗ることも時には必要です。
これを強引に授業に持ち込んでも、子どもは、不満をもったまま授業に参加するために、意欲的に取り組むことはありません。
ここが価値観の緩めどころになります。
子どもの気持ちをうまく生かしながら、授業に向かわせることできるのは、教師の力量になります。価値観が高ければ力量があるということでもありません。
授業の主役はあくまで子どもです。子どもが授業に集中することで、授業の成果が上がります。
価値観を緩めて、教師の力量を上げる教師が増えると子どもの主体性は高まってきます。この方が、教師として楽に授業を進めることができます。
出来事に伴う感情をうまく切り替える
仕事が多い事は確かですが、それを忙しいと感じるか、感じないかはその人次第です。
仕事を楽しんでいる人は、仕事が増えてもそんなに苦にはなりません。仕事以外のプライベートの時間を割かれることが苦になる人は、割かれると思うだけで忙しさを感じます。
ただし、割かれるにしても割かれることを覚悟したり、割り切ったりして仕事をしている人は、割かれることを苦にしている人と比べると多忙感は少なくなります。
気持ちが仕事に与える影響がいかに大きいかが、わかります。
学校生活の子どもたちとの関わりの中では、いつ何が起きるかわかりません。そのため、予定外の出来事が突然起きることがあります。
その出来事のために時間を割くことになり、これが多忙感を生むことにもつながります。
ただし、「出来事が入ったので、忙しくなった。」と感じながら、予想外の出来事に対応するのと、出来事に集中して対応するのでは、出来事への対応の効率に違いが生まれます。
それは、判断力が違いやスピード感の違いとなって現れます。
サクサクと出来事に対応することになります。
私たちが抱える仕事は、どの仕事も大切な仕事です。そのため、仕事を減らすことはできません。ただし、仕事の効率を上げることはできます。
仕事の効率を上げることで、時間をうまく使えるようになれば、ゆとりをもって仕事をすることができます。
一つの出来事があると、その出来事に対していろいろな感情が湧き上がります。その感情を引きずると仕事の効率が下がります。
そこで、私たちは、
愚痴を言って、気持ちを切り替えて次の仕事をする
おやつを食べて、気持ちを切り替えて次の仕事をする
お茶を飲んで、気持ちを切り替えてから次の仕事をする
(人と関わるときには、雑談も含まれます。)
となります。
このように私たちは、仕事と仕事の間に「愚痴」「おやつ」「おちゃ」「雑談」など切り替えるスイッチを用意して、複数の仕事をうまく切り替えながらしているのではないでしょうか。この時間が、かなり無駄な時間を作り出していることに気づいていないのではないでしょうか。この時間を楽しんでいるように感じることもあります。
この時間をできる限り、短くすることも効率を上げるための一つの方法です。当然雑談の中に今後に役立つことがあるので、なくすということではありません。
私が学びを勧めているNLP心理学のワークの中に、この時間を短縮するための簡単で早くできるワークがあります。
その一つが、「感情を形あるものにして、平静な状態を作り出す」というものです。
例えば、辛いと感じたならば、その辛さを感じる場所を探り、辛さを形あるものにします。つまり、色や形状、重さ、温かさ等があるものだとイメージします。
それを手のひらに乗る塊にして、ボールのように遠くに飛ばしたり、壁にぶつけて粉々にしたりするというワークです。
これをすると、辛さはワークをする前と比べるとかなり、下がります。
お金も時間もかけることなく、出来事から湧き上がった感情を鎮め、短時間で早く平静な状態にすることができます。
多忙感を取り除くための仕事の効率を上げる努力は、まだまだできそうです。
言葉に頼りすぎていませんか?
子どもは、大人である私たちに比べるとかなり語彙が少なく、自分の思いをうまく伝えることができません。
そのため、言っていることとしている事にズレがあることが往々にしてあります。
その時の私たちの対応が、子どもとの関係を変化させることになります。
言葉を優先していると、「誤魔化してはいけない。」「嘘をついてはいけない。」と子どもの言ったことを正そうとします。
当然子どもからすると、この言葉からは、嘘つきと思われていると感じます。
言葉でなく、行動を優先すると、言葉との違いがあるため、どういうことかわからないということになります。「どうしたの?」「なぜ、そんなことをするの?」と行動についての理解を深める発言になります。
子どもが誤魔化したり、嘘をついたりするのには、必ず理由があります。
意識して言うのか、それとも無意識に言うのかは、わかりませんが、その理由を探る努力が必要になります。
無意識ならば、理由を子どもから聞くことは不可能です。
子どもの行動から推測するしかありません。
脳は、安心・安全のためにはたらきます。その行動の裏には、必ず子ども自身の安心・安全を理由にそのような行動をすることがあると考えるとよいでしょう。
<例>
「あなたが、したのでしょ?」・・・「ぼくじゃないよ。」
・叱られるのが怖い
・よい子に見られたい
・悪いところを知られたくない 等
「あなた、みたでしょ?」・・・・「私、見てないよ。」
・関わりたくない
・友達との関わりを崩したくない
・見ていない方が得 等
「あなたのいう事を信じているからね。」などと言うと、もう逃げ場所がなく、苦しめることになります。・・・・「あなたを信じていたのに!」となると子どもとの関係が崩れてしまいます。
時には、見過ごしたり、大目に見たりしながら、その後の子どもの行動を観察し、本当の理由を探ることも必要になります。
子どもを支え続けること
担任教師は、担任した子どもからすると一種のスターになります。常に目の前に大きく現れ、一挙手一投足が、生き方の指標となっていることでしょう。
このような担任の背景にあるのは、子どもへの限りない深い愛情ではないでしょうか。
子どもの幸せを願い、子どもが生き生きと生きる事を願い、時には支え、時には一緒に歩き、時には親のように叱責する。そんな姿を子どもに見せています。
そして、
子どもが笑顔を見せる時、心が温かくなります。
子どもが辛い顔を見せる時、心が辛くなります。
子どもと一緒にいる時、一瞬子どものようになる時間があります。
それは、自分が純粋でいられる自分を感じる瞬間でもあります。
子どもが発するエネルギーは、私たちの生きる活力にもなります。
本当に子どもが心から好きだと思える瞬間があります。
そして、
そんな子どもと一緒にいたいと思います。
これが、深い愛情になって現れるのではないでしょうか。
子どもは子どもなりの人生を歩んでいます。私たちの生きている時代ではなく、これから創り出される時代の中で生きていきます。
そのため、私たちは、この子たちがその時代に生きて働くための「知恵」や「勇気」となるように支えているでしょうか。自問自答することになります。
支えている実感を得た時、心から幸せを感じるように思います。教師としての喜びに浸ることのできる瞬間にもなります。
教師としての学びは、すべて子どものためにあります。
「子どもに〜することができてよかった。」
「子どもが〜できるようにした自分を褒めてやりたい。」
「子どもと共に〜できた自分は幸せだ。」
自分の成長は、子どもが育った時に味わう充実感の中にあります。
失敗はありません。学びがあるだけです。
私たちは、毎日どれだけの学びをしているのでしょう。辛い苦しい日々を過ごすことがあるかもしれません。でも、その中にも必ず光が見えているはずです。
子どもの幸せのために、できることをし続けたいと思います。
心の病みを解決する糸口
子どものためにも、病む状況は改善しなければなりません。
改善するとき、自分一人の力で対応できることには、限界があると考えると、他人や組織を頼ることになります。
ただし、他人や組織に頼っていると時間がかかります。また、必ず改善される保障はありません。
なぜならば、同じ職場でずっと教員生活を送る人は、殆どいないからです。
仮に目の前の現場でつながった同僚や勤務した組織に頼ったとしても職場を変われば、その後も頼れる保障はありません。これでは改善しにくくなります。
では、どうすればよいのでしょう。
初めに「一人の力では限界がある。」と言いましたが、その視点から考えると病む状況の改善は難しいということになります。
しかし、そうではありません。
限界があると考えるから、限界ができるのです。
私たち人間には無限の可能性があります。この心の問題を解決する力は、誰もがもっています。もちろんあなたもです。ですから、自分で解決できるのです。
他人や組織は、少しでも早く改善できるように手助けをしてくれるだけです。
実際に限界があるわけではありません。限界を作ることで、無意識が自分を守っているのかもしれません。
「面倒なことはしたくない。」
「その問題を扱わなくてもまだ、大丈夫。」
「へこたれる自分ではだめだ。」
「こんな姿を人に知られたくない。」 など
無意識のうにちに働く見栄や自惚れや自尊心などが自分の可能性を制限してしまいます。
自分を深く見つめれば見つめるほど、心の問題は、自分でしか解決できないことに気づくはずです。
出来事は、その自分の心の問題を表出させてくれているだけです。
イラッとしたり、ムカついたりするのは、出来事に心が反応したのです。
出来事の問題ではなく、反応する自分が、問題を抱えているのです。
実は、私たちが長年かかって身につけてきた信念や価値観がイラッとさせたり、ムカつかせたりするのです。これはあなたではありません。あなたが体験・経験に基づいて培った信念や価値観です。
自分を責めても解決にはなりません。自分の信念や価値観と向き合うだけです。「〜しなければならない。」「〜すべきです。」と自分で勝手に枠を作っただけです。これは、あなたではありません。あなたが身につけたものです。信念や価値観という鎧を身につけているだけです。
鎧は脱ぐことも別のものに替えることもできます。余りにも長く身につけているので、愛着もあり、脱ぎたがらなくなっているだけです。
制限はここにあります。人はどのようにでも変わることができます。
柔軟性を発揮し、見方を変えれば変えることができるのです。
そして、今、あなたは、苦しんでいる役者としての自分を演技しているのかもしれません。服を着替えれば、幸せな自分を演出させ、舞台の上に上がることもできます。
客席から、どんな自分が舞台の上に見えるのでしょう?
あなたは、監督です。舞台の上のあなたをどのようにでも演出することができます。
自分を責め続けているのは、舞台の上に立っている自分になりきっているからです。
監督として、舞台の上の自分を見ると、どんな自分が見えるのでしょう。
そして、質問します。
舞台の上に立っている自分が好きですか?
名演技をしている役者ですが、愛していますか?嫌っていませんか?
どんな役でもやってくれる役者です。
あなたが愛さなくて、誰が愛してくれるのでしょう?
あなたは、いつでも精一杯役を演じている自分を誰よりも大事にしなくてはならない存在です。名監督であるあなただから、役者を生かすことができます。
本当に大切にしたい自分、自分らしい自分・・・・・そんなあなたを発見する機会が、目の前に現れています。
悩んだり、苦しんだりするだけのあなた役はやめましょう。
そして、子どもの前でも、明るく元気なあなたを演出させてください。
わかる・できる・・・・本気になっているか?
教師は、授業で勝負しなければなりません。そのために日々自ら鍛える努力をしています。その努力は、具体的にどんな努力なのでしょう。
1 学習環境を整える
2 日々の生徒指導に力を注ぐ
3 指導力アップの技術を磨く
4 授業内容についての見方・考え方を養う
5 授業に向かう自分のあり方を見つめる。
一番影響があるのは、5です。1、2に力を注ぎ、今のままの自分でよしとしていると、授業力は伸びません。
授業中の教師の姿にその違いがよく現れます。
子どもが「わかる」「できる」授業を目指している自分なのかを常に問い続けるていると子どもへの言葉かけが違ってきます。
(例)授業中に子どもに質問し、挙手させます。そして、指名し、子どもに返答を聞きます。教師のあり方が、その後の対応に差を生みます。
1 「そうだね。」(or「ちがいます。」など)と子どもに話す。
2 少し間を取り、他の子に「いいかな。」と尋ね、1をする。
3 少し間を取り、他の子の様子を見たあと、「どう?」と尋ね、返答についての他の子どもの判断を問う。
4 学級全員が子どもの返答に対して、自分の考えと比較し、検討し、自分なりに判断させ、「あなたはどう思う
の?」と自分の考えを 言わせる。
1、2のように教師自身の判断で授業を進めているうちは、授業の質を高めることはできません。
子どもが「わかる」「できる」にこだわる言葉かけになると、授業の質が変わります。
何を背負っていても
子どもたちが、学校で見せる姿が、子どものすべてではありません。子どもは、子どもなりに自分らしく学校生活で生きるための姿を表しています。それは、教師が好む姿になるか、それとも好まざる姿になるかは、別です。
学級経営は、そんな子どもたちを一つにまとめていく作業になります。
教師の都合のよい姿にしようと力でねじ伏せれば、必ずどこかで、反発が生まれてきます。
子どもは、教師の刺激に反応します。
目の前で起きたことは、背負っているものの影響を受けるために、反応が子どもによって異なります。しかし、背負っているものの責任にすることはできません。
背負っているものの違いがあっても、どの子も学級の仲間として大切にされなければなりません。
もし、刺激による反応が好ましくないから、仲間に入れないという構えがあると閉鎖的な学級になり、差別が生まれます。
先生のお気に入りの子どもとそうでない子どもです。これでは、学級がまとまるはずはありません。
どの子も大切にされなければなりません。
そのためには、目指す方向を示し、それに向かう仲間を増やしていくという考え方が必要になります。
できない仲間をできる仲間が支える学級にするのです。
そうすれば、みんながそろってできた時に、みんなで喜べる学級になります。
背負っているものの違いは、できるまでの時間の違いになるだけです。
一緒の仲間になるために、半年かかろうと、一年かかろうと、構わないのです。その過程で、子どもたちは、仲間を見捨てない素晴らしい仲間に育っています。
その姿勢が学級をまとめる方向に動いているのです。決して、あなたの取り組みが遅いからと言って非難されることはありません。
むしろ、子どもの育ちに合わせながら無理なく子どもを育てる素晴らしい姿だと評価されるものです
テレビやゲームに子育てを任せていませんか?
仕事をしていると多くの保護者の方は、かなり疲れて帰宅するのではないでしょうか。そして、仕事に疲れて家に帰ってきたら、家でゆっくりしたいという気持ちになることでしょう。
家に帰ってまで、子育てに力を注ぐには、それなりのエネルギーが必要だと感じている人は、少なくないと思います。
家庭で、子どもがテレビやゲームをしている時間は、親にしてみるとほっとする時間になってしまいます。
テレビやゲームは子どもにいろいろな刺激を与えてくれます。
製作者には、「もっと見せたい、やらせたい。」という意図があるので、時間を忘れて、次から次へと興味をそそる刺激をくれます。
一度はまると抜け出せなくなります。
これを止めるには、子どもの力ではなかなかできません。
学習は、繰り返しによって身に付きます。
テレビやゲームを見るという体験が繰り返されるのです。ここで身につける学習は何がを考え、冷静に判断し、止める役割が保護者の仕事になります。
あくまで、私見です。ご参考までに
(例)
1 「面白いことはするが、そうでなければしない」という価値観を身につけることができます。
(興味のある内容を選択する自由は、自分にあります。)
→ 好き嫌いがはっきりしている子に育ちます。
2 「自分の意志で、関わりを作ったり、切ったりできる」という価値観を身につけることができます。
(番組やレベルを選ぶ主体は、自分にあります。)
→ 自分が主体でないと満足しない子に育ちます。
3 「テレビやゲームをしているときは、楽しい」という価値観を身につけることができます。
(「勝った達成感や自分の情緒をくすぐるものが楽しさになります。)
→ 「楽しさ」の豊かさに欠ける子どもに育ちます。
4 「与えられた課題に達成する」という価値観を身につけます。
(ゲームでは、新たな課題は自分ではなく、製作者の意図にあります。)
→ 自ら課題を作ることの苦手な子どもに育ちます。
→ 根気強さを身につけます。同時に飽きっぽさも身につけます。
5 「テレビやゲームをしているときは、自分の世界に入ることができる」という価値観が身に付きます。
(人と関わる時は、どちらが優れている(よく知っているか)、劣っているか(知らないか)等と比較することになります。)
→ 人とうまく関われない子どもに育ちます。
→ 競争心の強い子に育ちます。(優越感、劣等感を味わったり、味わわせたりすることに興味をもちます。)
6 「テレビやゲームが、関わりをもってくれる」という価値観を身につけます。
(スイッチをONにすれば、反応の良し悪しに関わらず、必ず反応が返ってきます。無視されることはありません。)
→ 無視されることへの怒りを感じる子どもに育ちます。
7 「リアルよりもバーチャルの方が楽しい」という価値観を身につけます。
(テレビやゲームは、情報提供が単純化されて、わかりやすくなっています。)
→ 現実の複雑さを面倒だと感じる子どもに育ちます。
テレビやゲームを否定しているわけではありません。次代を担う子どもたちにとって、テレビやゲームとうまく付き合うことは、競争社会や情報社会に生きる子どもたちにとって大事です。
ただし、全国学力調査の結果からみると、テレビゲームをする時間の短さと、学力テストの平均正答率との間に相関があるということです。(平日1時間以上→学力低下)
子どもが家庭で自由に過ごす時間は、限られています。その中でしなければならないことは、たくさんあります。
<例えば、家族団らん、食事、勉強、入浴、手伝い(仕事)、明日の準備、稽古事、その他(読書、日記等)>
このことから考えると、テレビやゲームの時間を短くすることのできる親になることが、上述の価値観を否定する親になると思います。
何か新しいことをするのではなく、今ある家庭生活の中でしなければならない事をするために、テレビやゲームの時間を制限できる子どもの生活のリズムを作ることが子育てになります。
躾けること
「仕付け」・・・裁縫でいう「仕付け糸」を連想すると「躾」がよくわかります。
仕上げの前に「仕付け糸」を使います。「仕付け糸」で大方の縫う方向を示し、それに合わせて仕上げ糸で縫っていきます。仕付け糸は、縫った後は、布から抜かれることになります。
躾は、親の価値観を押し付けることではありません。子ども自身が「あっ、これは大事なんだ。」と自分で決めて、初めて歩み出すことが躾になります。あたかも仕上げ糸のように「仕付け糸」を縫っても、子どもの糸ではありません。いずれ「仕付け糸」は抜かれる運命です。私たちは、子どもの自立に必要な「仕付け糸」です。細かくすればするほど、窮屈になります。
力を入れすぎていませんか?
できないことで自分を苦しめていませんか?
子どもの学びの機会を奪っていませんか?
子どもは、見ています。知っています。ですから、親さんの苦しみも感じています。
その苦しみを背負っていると、何とかしようと子どもも苦しんでしまいます。
無理をせず、子どもの失敗も受け入れ、学びの機会にすると楽になります。
親を困らせる理由
子どもは、親の姿を見て育ちます。子どもは、刺激に反応していることが多くあります。刺激が重要です。子どもにとって、安心・安全な刺激ならば、受け入れることができます。危険であれば、避けようとします。時には、嘘をついたり、ごまかしたり、逃げ出したりします。ですから、今だけでなく、長い将来を見据えて、考えなければなりません。子どもは愛されたい存在です。愛されるためにいろいろな行動をします。愛されていることを実感すれば、自分から少しずつ離れていきます。離れるまでに、自立できるだけの素地を養うことが躾だと思います。
ただし、躾だと言って、力を入れすぎるとその反動が必ず現れます。
ハンドルに遊びがあるように、ゆとりをもって子どもに接することが反動を少なくすることにつながります。
今は、親を困らせることで、「私のことを一生懸命に考えてくれているんだ。」と子どもが実感しているのかもしれません。今は、子どものために、苦しむ必要があるのかもしれません。
必ず解決できます。目の前に解決できない問題は起きません。決して逃げることなく、誠実に目の前の出来事に向き合うあなたでいてください。
人に迷惑をかけることがあれば、子どもを叱るのではなく、親としての責任ある姿を精一杯子どもに見せることが大切です。これが、生き方を身をもって示すことになります。親が泣いたり、叱られたりする姿を見た時、「あー、何て事をしてしまったのだ。」と子どもが実感し、変化が起きます。
人に迷惑をかけていないのならば、迷惑かけるかもしれないなどと余計なことを考えることなく、目の前の子どもと向き合ってください。問題は目の前で起きています。起きていない未来を考えるから問題を複雑にしてしまうのです。ひょっとすると、目の前の問題に真摯に向き合えないから、未来に逃げているのかもしれません。子どもの心を察して、今に向き合うことで、未来は変化します。心配はいりません。
子育てで悩むこと
近年、「好き」と答える人が少なくなっているように感じます。
自分を責め続けると、自分に自信がなくなり、次第に自分が嫌いになっていきます。これは、特別なことではありません。当然の事です。
失敗した時、自分を責める時に湧き上がる感情は、自分が作り上げた価値観によるものです。決して自分ではありません。
子育てがうまくいかないから、自分はダメだという人がいますが、子育てがあなたのすべてではありません。一つがダメだとすべてダメにしてしまうのは、脳のはたらきによるものです。子育てと自分を切り離して考えることがとても大事になります。
子育ては、子どもに合わせてしなければならないため、試行錯誤で行うことになります。うまくいかなくて当たり前です。失敗を経験しながら、学び続けるしかありません。
子育ては、他人と比べることもできません。世界に一人しかいない特別で価値ある存在のお子さんのための子育てです。それは、親だからできることで、他人ができることでもありません。
すべてが学びのチャンスです。子どもが親を困らせる時、「困ったことだ。」と捉えるから、「困ったこと」になります。
子どもは、学びのチャンスを与えてくれたのだと思います。ただ、それだけです。うまくいかないというのは幻想でしかありません。
うまくいくときは、自分の思いと子どもの思いが同じになっているということになります。
うまくいかないときは、子どもの思いとズレがあり、親としての学びのチャンスが訪れたことになります。
思い通りにならないから、うまくいかないと感じているだけです。
子どもは、あなたではありません。思い通りにならないのが子どもです。一人の人格をもった人としての子どもを大切にすれば、思い通りにならなくて当たり前と感じるはずです。
どこかで、自分と子どもを同一視しているかもしれません。分身のように感じているから、思い通りにしたくなるのかもしれません。
ただそれだけのことです。
決して、あなたと子どもとは同じではありません。
一人の立派な人間です。
ですから、うまくいかないときこそ、自分とは違うその子らしさを見つけるチャンスになります。
子育ては、すべて学びです。自分自身を高めてくれるよい機会です。
子育てを「自分を責める材料」にしないでいただけないでしょうか。
母親からよく耳にする「私の子どもとして生まれてきてくれてありがとう。」の言葉の裏には、一人の人間としてお子さんを見ている母親の気持ちがあるように思えてなりません。